「がんばろう日本」「ひとつになろう日本」は、やめてほしい


東日本大震災を受けて、案の定「がんばろう日本」のスローガンが、あちこちで使われています。
被災者の心情を無視する陳腐なメッセージに、うんざりさせられます。


避難所などで、寒さに震え、暖かい食事をとることができず、入浴もできないような過酷な状況下で、様々な不安を抱えながら暮らす人々。
家族を亡くし、悲しみに打ちひしがれ、自分自身が生きる意味すら見失いかけている人々。
「これ以上頑張れないほど頑張っている人々」「頑張る気力が失せた人々」に、「がんばろう」という言葉を浴びせる無神経さ。
命令形である「頑張れ」よりはマシですが。


しかし、相変わらず「がんばれ日本」などと被災者を「応援」(命令?)するメッセージが海外から届けられたというニュースもありました。日本語のnative speakerではないため仕方ないかもしれませんが、有難迷惑のようにも思えました。


東京大学教授・上野千鶴子氏の以下の感想に、全く同感です。

「がんばれ、ニッポン!」コールがきもい。がんばるのは個人個人であって、ニッポンじゃないのに。そのニッポンには外国のひともたくさんいるのに。

http://twitter.com/ueno_wan/status/57481624526397440


フジテレビでは、「ひとつになろう日本」のキャッチフレーズが、繰り返し流されています。
acのCMでは、SMAP中居正広が「今、ひとつになる時」と語っていました。
私には、空疎な言葉としか思えません。
http://www.fujitv.co.jp/japan/


この言葉も、被災者の心には、どのように響くのでしょうか。
「ひとつに」と言われれば言われるほど、自分たちと「非被災者」との間の溝を感じるかもしれません。
「ひとごとだと思っているから、そんなことを言っていられるんだ」と。


そもそも、「ひとつになる」とは何を意味するのでしょうか。
仮に、「ひとつになる」が「非被災者」が被災者に共感することであるとしたら、被災地に行かずに、被災者の苦しみおよび悲しみに共感することなど、できるのでしょうか。


サッカーワールドカップまたはオリンピックには「国民がひとつにまとまる効果がある」とする発想と同様のナショナリズムなのでしょう。サッカーワールドカップまたはオリンピックは何度も行なわれていますが、日本社会の現状は「国民がひとつにまとまっている」とは思いません。「ひとつにまとまる」必要があるとも思いません。
http://d.hatena.ne.jp/psw_yokohama/20080808/p1


ただでさえ同質化圧力が強い日本社会。更に「ひとつになれ」とは、どのような社会が望ましいと考えるのでしょうか。
「国民がひとつになることが必要だ」と主張する人は、「ひとつになれない人」「ひとつにならない人」を排除するつもりでしょうか。そもそも人間は多様であり、誰かが決めた「振る舞い」に皆が同調しなければならない、とする発想は危険です。


立教大学教授・香山リカ氏は、「復興ナショナリズムの危険性」を指摘しています。
http://diamond.jp/articles/-/11932


日本」の読み方が「にっぽん」ばかりで、「にほん」がほとんど聞かれないことにも、ナショナリズムの影を感じます。
古くは「やまと」または「ひのもと」だったのが、平安時代以降「にほん」または「にっぽん」と音読することが多くなったそうです。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/17016214065900/
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/114950100000/


法的には、どちらかの呼称が正式だと決まってはいないようですが、サッカーワールドカップ、オリンピックおよび「大震災復興キャンペーン」においては「にっぽん」ばかりです。
呼称まで「ひとつにしなければならない」とでも思い込んでいるのでしょうか。