「生きる意味」と自殺


先月のNHK視点・論点」での東京工業大学准教授・上田紀行氏の話には、考えさせられました。

 12年連続で年間3万人もの人たちが自殺しているという、この痛ましい現実の原因は何なのでしょうか。
 多くの人は、それは不況が原因だと言います。確かに、不況に伴うリストラ、失業率の上昇、それらが背景にあることは間違いありません。
 しかし、日本よりも失業率が高くても、自殺がもっと少ない国はたくさんあります。また、日本よりずっと貧しいのに、人々が幸せそうに生きている国もいくらでもあります。
 となれば、私たちは、すべてを不況のせいにするのではなく、もっと根本的に、私たち自身の生き方を振り返ってみなければ、ならないのではないでしょうか。

 私は5年前に出版した、この『生きる意味』という本の中で、現在日本が直面しているのは、経済的な不況以上に、「生きる意味の不況」なのだ、と主張しました。私たちの「生きる意味」が貧しくなっている、「生きる意味」が分からなくなってしまっているのではないかということです。

(中略)

 「生きる意味」が安定していた時代もありました。かつての日本ならば、毎朝の満員電車の向こう側には、未来の幸せが広がっていました。今日よりも明日は必ず豊かになる、幸せになるという確信があったのです。そして子どもたちも、「先生や親の言うことを聞いて、勉強していい学校にいき、いい企業に入れば、幸せになる」と信じていました。ですから、その時代には私たちは、ことさらに、自分の「生きる意味」など、考えなくても良かったのです。
 ところが、今は満員電車の向こうに、幸せな未来が見えてきません。やっとたどり着いた会社では、厳しいノルマがあり、競争があり、それを達成できないと、いつでもリストラされてしまいます。子どもたちが親や先生の言うことを聞いて大人になっても、そこには安心できる未来がないわけです。
 つまり、プレッシャーだけがあってその先の幸せな未来がない。「生きる意味」が見いだせない社会に私たちは生きているのです。

 さて、それならば、私たちは、いったいどうすればいいのでしょうか。
 私はそれには二つのことが必要だと考えています。一つには、私たちの意識を変えること。そしてもう一つは、あまりに過酷な今の社会システムを変えることです。

 まず私たちの意識です。
 それは、私たちの「生きる意味」は、誰かが与えてくれるものではなく、自分で創りだしていく時代に入ったということです。以前の日本社会では、本当に自分がどのように生きたいのかよりも、世間体からみて、いかにも良さそうな「生きる意味」が求められてきました。しかしそうした既製服の「生きる意味」はもう機能しなくなってきています。ひとりひとりが自分なりのオーダーメイドの「生きる意味」を発見することが求められているのです。
 ところが、現実にはその反対のことが起こってきました。この10年間ほどの日本は、経済的指標が第一で、お金こそが何よりも大切なのだと言わんばかりの、「生きる意味」のますますの単純化が行われてきたのです。しかし、「生きる意味」がお金にリンクさせられ、なおかつ金回りが悪いという状況は、私たちを最大限に不幸にする、悪循環を生みだしてきました。
 私たちは、経済的な自立、という言葉はよく使います。しかし、いま私たち日本人に求められているのは、「生きる意味」の自立なのです。自分の幸せが株価に連動してしまったり、人からの評価に連動しているのでは、常に私たちは不安でたまりません。そうではなくて、私なりの「生きる意味」を見つけることが、私たちをこのがんじがらめのシステムから救うことになるのです。

 そのためには、社会のあり方を変えることも必要です。それは、社会の中で困っている人を、自己責任だと切り捨てるのではなく、物心両面で、何としても救いきる、という決意をもった社会にすることです。そんなことを言うと、それは理想論だと言う人がいるかもしれません。しかし私は確信を持って言いたいのですが、日本人の「生きる意味」の自立と回復のためには、救いのある社会を創り上げることが、いちばんの現実論なのです。

(中略)ひとりひとりが「かけがえのない人間」なのだと思えず、自分は使い捨てなんだ、どんなに困ってもこの社会は救ってくれないんだ、と思っている若者たちは、常に人の目を気にして、周りからの評価に敏感な人間にならざるをえません。周りの人から評価されず、のけ者になり、負け組になったら、もうはい上がってこれない。だから、常に評価され、ひとから嫌われないように、場の空気を読みながら生きていくのです。それでは決して「生きる意味」の豊かさはありえないのです。
 社会の中の「支え」と、私たちの「自由」は、実はコインの表裏なのです。支えがない社会では、私たちはお金にしがみつきます。人からの評価にしがみつきます。そうして、私たちはどんどんシステムの奴隷となり、「生きる意味」の自由を失っていくのです。

(中略)追いつめられた人を何としても救うのだという決意は、私たち大人世代から、若い世代への大きなメッセージになるでしょう。「人間は使い捨てだ」と子どもたちに思わせてしまう社会は不幸です。そしてその子たちは、ますます「生きる意味の不況」に悩むことでしょう。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/50874.html


ひとりひとりが「生きる意味」を考えざるをえない状況になっているという時代認識は、私も同じです。


しかし、上田氏も指摘されているとおりなのですが、現実には「『生きる意味』のますますの単純化」が進んでいます。「正しい生き方」「正しい価値観」を振りかざす人々は、宗教関係者以外にも全く珍しくありません。


そのような人々が作り出した「がんじがらめのシステム」から逃れたいと思うのは、ごく自然なことです。


そのためには「物心両面で、何としても救いきる、という決意をもった社会にすること」が必要だと上田氏は訴えていますが、私は、この社会は結構「救いのある社会」だと考えています。


「何としても救いきる、という決意」はなくても、生活保護などの社会保障制度は、それなりに用意されているからです。


ただし、精神面での支えが乏しく、自殺で物事を解決しようとする社会の風潮が、毎年多数の人々が自殺する最大の要因だと私は認識しています。


「追いつめられた人を何としても救うのだという決意」が社会全体で共有されれば、様々な問題を政治の力で一気に解決することも可能だと思いますが、すぐにはそうなりそうもないことに、私は時々悲観的になってしまいます。